reviewbiyori’s blog

映画や小説の感想を書いていきます。基本、ネタバレになります。

la la land ending(ラ・ラ・ランドのエンディング)

デイミアン・チャゼル監督の映画「ラ・ラ・ランド(la la land)」の感想を書きました。とても印象深く、2回観ています。中身は私の個人的な意見・見方、ネタバレありです(contain spoiler)

 

 

ラ・ラ・ランドのエンディングは「甘くて苦い」のか?

 

www.youtube.com

la la land(ラ・ラ・ランド)。映画の舞台となる、ハリウッドのある米ロサンゼルスの別称。そして、現実離れした夢のような世界、現実から遊離して自分だけの世界に入った陶酔感、精神状態を指す。

 この言葉が映画のテーマとなっている。夢を追うことと現実の世界で生きることには相克(conflict)がある。人は、これにどのように対処すればいいのか。これについてのチャゼル監督の解釈が示されている。

 映画を観た人の評価が真っ二つに別れた、あの、幸福感ではなく喪失感を感じさせるエンディングは、この映画を、主役二人のラブストーリーとして読むか、二人が夢を追うことを描いたストーリーとして読むかによって変わってくるという気がしている(私は、一度目は前者、二度目は後者の観点から映画をみた)。

ジャズ・ピアニストと女優 夢を追うふたり

主人公の夢を目指す二人は、ライアン・ゴズリング演じるジャズ・ピアニストのセバスチャン(セブ)とエマ・ストーンが演じる女優の卵のミア。セブは、腕のいいピアニストだが、ミュージシャン個人の直感で即興で演奏するフリージャズの精神を理想とし、それにこだわるあまり、レストランの雇われピアニストを解雇されるなど現実に上手に適応できていない。ミアは、女優のおばの影響を受け、ネバダ州ボールダーシティからロスに上京し、ハリウッド内のカフェのバリスタをしながら、オーディションを受け、見いだされるのを待っているが、落ち続けている。オーディションの役柄は、タフで威圧的な言動をとる警官や教師、実務的な看護師などで、内省的でロマンティックな彼女にあった配役とは思えない。ストーリーの開始時点で、彼女は、自分の中に眠る才能が何かを理解していない人物として描かれている。

 この二人は、ロサンゼルスの大渋滞の高速道路で、短いが印象的な諍いをした後、二人が最低の時期にあるときに偶然、再会する。ミアはオーディションに落ち、「自分を引き上げてくれる誰か」を見つけるために出かけた金持ちのパーティで無視され、車もレッカー移動され歩いて帰宅する途中で、ピアノの音に惹かれてレストランに入る。その音はセブが支配人の指示を無視して、自分の感性で弾いた曲だった。ミアは、演奏に感動し、セブに声をかけようと近づく。これは、後から考えると、彼女がセブに影響されて自分の本質に気づき、女優という自分の夢に向かって踏み出す、最初の重要な動きとなる。この時点では失意のセブに無視される。だが、もちろん、映画はこのままで終わらない。この映画のテーマが、「夢と現実の相克」、つまり二人のドリーマーが、惹かれ合い、互いに影響を与え合い、相手が道から逸れたときには引き戻し、お互いの夢をともに実現させようと苦闘する姿を描こうとしたものだからだ。

 ふたりは互いの夢の実現に影響を与え合う、そして…

 ラブストーリーとして観ていると見落としがちだが、二人が、夢を実現させようともがくなかでポジティブな影響を与えあう描写はきちんと盛り込まれている。例えば、セブがミアに自分で脚本を書く自作自演の舞台に取り組むことをすすめ、ミアが自分の価値に気づき、身を粉にしてそれに取り組むようになったこと。ミアがセブの夢(本当のジャズが聴けるクラブを開店すること)を実現させるには、安定した収入が必要になると示唆したこと(チキン・スティックでは適切な店名にはならないことの指摘も)。セブが開店資金を作るために友人キースの売れるバンドのピアニストになり、自分の理想とは違う音楽のツアーに追われ、にもかかわらず、ある程度その境遇に満足し、「自分のジャズ」を目指す道から逸れだしたとき、ミアは「あなたはそれでいいの」と問いかける。そして、セブは、ミアがあれほど打ち込んだ一人芝居が失敗し、故郷ボールダーシティに引きこもったとき、その芝居を評価した監督から差し伸べられた映画のオーディションを受けるよう強引に求め、ミアを翻意させた。これが、ミアに大女優としての道を開かせるきっかけとなった。

 だが…。この映画は、二人が夢を追い、互いに影響を与え、支えようとする行動が、途中からは、二人が一緒に生きていくという基盤を揺るがす構成になっている。

チャゼル監督はプログラム記載のインタビューで以下のように語っている。

僕がとても感動したのは、人は人生において、自分を変えてくれて、なりたい人物になれる道筋を作ってくれる人と出会えるけれど、最終的にはその道をひとりで歩まなければならないことだ。人は、残りの人生を決定づける人と結びつくことはできるが、その結びつきは、残りの人生までは続かない。そのことは、ものすごく美しくて、切なくて、驚くべきことだと僕は気づいたんだ。この映画ではそのことを描きたかった

 なんてことだ。これでは、この映画は、ハリウッドの伝統的な映画のように、幸福感を観客に与えてくれるかたちでは終わらない。ドリーマーの二人は、ストーリーの最初に目指していた自分の夢を現実の中でつかんだが、二人はそれを一緒に生きるというかたちでは実現できなかった。

 ミアは大作映画のオーディションに合格し、内省的な彼女にあった配役を得て、ロスから遠く離れたパリでの撮影の成功をきっかけに大女優として成功した。セブではない夫と娘の幸せな家庭を築き、セブは、キースのバンドを続ける安易な道を選ばず、自分の夢だった本当のジャズが聴けるクラブを開く。客の入りはよく見える。

 だが…。これで本当によかったのだろうか。

 成功したミアは夫の運転する車で夜のロサンゼルスの高速道路の渋滞に巻き込まれ、脇道に逸れて、市街のレストランでディナーを取り、ジャズの音に誘われて、クラブの中に誘われる。そこは、ミアとセブが最も幸福だった時期にセブに提案した店名「セブズ」というネオンの看板を掲げたセブのクラブだった。そこで、セブとミアは再会を果たす。セブはミアに気づき、このストーリーで、二人の関係と、ミアの女優になるという夢を前に進めるきっかけとなった曲「セブとミアのテーマ」を演奏する。

「ありえたかもしれない現実」の幸福感と非現実感

 ミアは、セブを食い入るように見つめる。セブは、最初のアイコンタクトの後は、ミアを見ずに演奏を続ける。そうしているうちに、映画は、ミアとセブが一緒に生きていくことを選んだ「ありえたかもしれない現実の映像(could have been montage)」を映し出す(この映像は、ミアが実際に体験した現実を書き換え、上書きしているため、私は、ミアの心象だと思う)。映像は「ありえたかもしれない」とはいいがたいほど現実から遊離しているが、観客をすさまじい幸福感に満たす。

 だが、この幸福な時間は7分間だけしか続かない。演奏は終わり、ミアは夫とともに席を立つ。帰り際、ミアはセブを振り返る。

ミアはセブをすがるような眼で見つめる。セブは一瞬の逡巡の後、うなずく。ミアの眼に涙が溢れた後、ほんの少しだけ微笑む。二人は別れる。

 自責の念、後悔と同時に、二人がそれぞれの夢を追うという選択は正しいという理解がある。このシーンの二人にセリフはない。私には、以下のように感じられた。

 

「わたしたちは、これでよかったの?」

「…君は、よくやってる。これからも自分の道を進んで」

「…ありがとう」

(…俺もしっかりやらなくちゃな)

 

人は、残りの人生を決定づける人と結びつくことはできるが、その結びつきは、残りの人生までは続かない

 

夢は、現実のなかでは、完全なかたちで実現することはできない。それは美しく、切ないことだ。セブとミアの結末は二人の関係にとっては悲劇だが、それを受け止め、受け入れよう--というのがひとつの解釈だろう。こうした解釈は観客に、自分の人生を思い起こしつつ、甘く、苦く、深い印象を与える。

 それでも人は、完全な理想を希求する

 だが…それでも、人は、完全な理想を希求してしまうものだ。私は、ラストシーンの幸福感と喪失感に溢れたラ・ラ・ランドの夢想は、ミアの、そうした理想を強く、強く求める願いが「これがダメでもこれはありえたかもしれない。それがダメでもこれなら…」と、次々と現実に抵抗するかたちで現れたものと考えている。

 この映画は、二人のドリーマーが、互いに影響を与えながら夢を実現させるために前に進む物語だ。チャゼル監督は、この映画を、夢を実現させるためには何かを犠牲にしなければないという諦念で終わらせてはいない。そうしたビターな現実にもかかわらず、それでも、だからこそ、理想の夢と現実を追い求めつづける強い情熱が輝き、人々の感情を深く揺り動かすことを示したのだと思う。